光市母子殺害事件

これは本当にひどい事件だ。こういう事件は決して希有な事件ではないというのが現実なのだろうが、それでもこの事件の悲惨さが弱まることはない。遺族にとって耐え難い悲しみと苦しみを与えることでは、事件に優劣はないのだし。被告の弁護人である安田弁護士は人権派ということで通っていて、死刑廃止運動のリーダー的存在でもあるという。死刑廃止論者は、加害者を死刑にしたからといって、亡くなった人は帰ってこないし、そんなことを亡くなった人が望んでいるのだろうか、というような論を展開する。しかし、それはあくまでも「論」だ。亡くなった本人の意志など確かめようがないではないか。そんなことを誰が言っているのか?誰も言っていない。そういう気持ちを持っているかどうか、聞くことさえできないというのが「命を奪う」ということである。それはいかに「その立場になって想像」しようとも想像しきれるものではない。殺される恐怖、加害者への怒り、大事な人たちを残して死なねばならない無念、そんな思いを誰が想像できようか。人は自分がその立場になって初めて分かることが多い悲しい存在だ。ましてや犯罪被害者となって亡くなることを追体験することは不可能だ。検証不可能な推論を主張の根拠にすることはまやかしだ。
なぜ被害者は死ななければならなかったのか、なぜ加害者は命を永らえ、のうのうと生き続けるのか。どうして遺族たる自分はいつまでも消えない(それはきっと死ぬまで消えない)心の傷を抱えてこれから生きていかねばならないのか。こうした問いに本当に応えられる死刑廃止論者はいるのだろうか。文明の洗練度、というような空理空論で人のこころが納得できるだろうか。そんな賢い存在なら人間世界に戦争などとっくの昔になくなっている。
自らの手で報復することを禁じることは、社会秩序を維持するために必要だとは思う。ならば法が、国家が、遺族に代わって「命の重さ」を加害者に自らの死をもって教えることに何の不都合もないのではないだろうか。