ブログのことなど

最近、はてなブックマークRSSを本格的に使うようになった。それで感じるのだが、本当にこうしたツールが、これまでのインターネットとの関わり方を変える可能性があるということを実感した。梅田望夫さんが「ブログをツールととして本を書く」というようなことを著書の中で書いていて、それを読んだときは何のことやらなあ、という程度にしか感じなかったが、ここ数日、少しわかるようになった。ネットは情報を記憶して整理しておくツールとして、かなり使いやすく成長してきている。特にはてなブックマークには賛否両論あるようだが、自分のツールとしてはかなり使える。
それからRSS。これも便利。どういうブログをマークしておくかが問題だが、そこで十分なチョイスをしておけば、相当に情報収集効率が上がる。FEEDで新たなビジネスモデルを構築しようという動きもあるようだが、それも宜なるかなR30さんは「これからはPVからFEED」とのエントリーを書いているが、確かにそうだ。

さらにグーグルのパーソナライズサービスが、もっと日本語環境に対応すればいいのだが。あるいははてながもっと強化されるとか(しかしはてなはヤフーのような本格的なポータルサイトを作る気はなさそうで残念)。

いかに価値ある情報(当人にとって)をまとめて効率よく集められるか、そしてそれを加工したり利用しやすくする環境をどう作るかで、今後数年のビジネス競争は決まるのではないか。

光市母子殺害事件

これは本当にひどい事件だ。こういう事件は決して希有な事件ではないというのが現実なのだろうが、それでもこの事件の悲惨さが弱まることはない。遺族にとって耐え難い悲しみと苦しみを与えることでは、事件に優劣はないのだし。被告の弁護人である安田弁護士は人権派ということで通っていて、死刑廃止運動のリーダー的存在でもあるという。死刑廃止論者は、加害者を死刑にしたからといって、亡くなった人は帰ってこないし、そんなことを亡くなった人が望んでいるのだろうか、というような論を展開する。しかし、それはあくまでも「論」だ。亡くなった本人の意志など確かめようがないではないか。そんなことを誰が言っているのか?誰も言っていない。そういう気持ちを持っているかどうか、聞くことさえできないというのが「命を奪う」ということである。それはいかに「その立場になって想像」しようとも想像しきれるものではない。殺される恐怖、加害者への怒り、大事な人たちを残して死なねばならない無念、そんな思いを誰が想像できようか。人は自分がその立場になって初めて分かることが多い悲しい存在だ。ましてや犯罪被害者となって亡くなることを追体験することは不可能だ。検証不可能な推論を主張の根拠にすることはまやかしだ。
なぜ被害者は死ななければならなかったのか、なぜ加害者は命を永らえ、のうのうと生き続けるのか。どうして遺族たる自分はいつまでも消えない(それはきっと死ぬまで消えない)心の傷を抱えてこれから生きていかねばならないのか。こうした問いに本当に応えられる死刑廃止論者はいるのだろうか。文明の洗練度、というような空理空論で人のこころが納得できるだろうか。そんな賢い存在なら人間世界に戦争などとっくの昔になくなっている。
自らの手で報復することを禁じることは、社会秩序を維持するために必要だとは思う。ならば法が、国家が、遺族に代わって「命の重さ」を加害者に自らの死をもって教えることに何の不都合もないのではないだろうか。